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第2話 聖女の朝はタイムカードなし

Auteur: 夢見叶
last update Dernière mise à jour: 2026-01-22 21:16:10

 終電もなければタイムカードもない世界で、私の朝は鐘の音で始まる。

 外はまだ夜の色だ。塔の鐘が低く鳴り、冷えた石床が膝に現実的な痛みを返す。女神像の足元でひざまずきながら、私は今日の「案件」を頭の中で並べていた。

(今日も死者が出ませんように。変な契約が増えませんように。ついでに、睡眠時間が少しだけ伸びますように)

《最後のだけ、だいぶ個人的ですね》

 頭の内側で、軽い声が笑う。

 公正契約の女神だ。

(個人の願いも、契約にしてくれていいんですよ)

《「聖女の睡眠時間は最低〇時間保証」ですか。世界契約にするには前例が足りませんね》

 そんなやり取りをしながら、私は形式通りの祈りを終えた。

 鐘が二度目に鳴る。ここからが、聖女の「勤務時間」だ。

 祈祷室を出て廊下を急ぐと、すでに神官たちが書類を抱えて並んでいた。

「聖女様、お時間のあるときにこちらの——」

「こっちは至急で——」

「優先度の高いものから順にお願いします」

 笑顔でそう告げながら、私は心の中で勝手に分類する。

(命に関わる案件、A。生活直撃がB。見栄と政治はC)

 聖女執務室の扉を開けると、紙の山と、その陰から飛び出してくる若手神官が一人。

「せ、聖女様、おはようございます!」

 茶色の髪を慌てて撫でつけながら、ティオが立ち上がる。契約書庫所属の書記官で、今はほぼ私の専属助手だ。

「おはよう、ティオ。朝から元気ね」

「い、いえ! その……昨日も、灯りが消えたの、だいぶ遅くて……」

「大丈夫よ。前の職場に比べたら、まだマシだから」

 口が勝手に、いつもの言い訳をこぼす。

「前の……?」

「こっちに来る前に、ちょっとね。それより今日の予定表を」

 話題を変えて紙を受け取ると、「祈祷・相談・視察・会議」とびっしり並んでいた。

(はい、今日もサービス残業コース)

《本日の予定件数、昨日より一割増ですね》

(神様のくせに、残業予測をしないでください)

《稼働時間のログ管理も、契約の一部ですよ》

 扉がノックされる。

「個別祈願のお客様を、お通ししてもよろしいでしょうか」

 そこから先の午前中は、ほぼ3コマ漫画だった。

 個別祈願室で貴族夫人の昇進祈願をこなし、隣室で怪我人を治しながら減免申請にサインをし、廊下では「ついでに」と奉仕活動の報告書を抱かされる。椅子と書類と祈りが、切り替わり続ける。

《聖女業務、順調に過重稼働中ですね》

(「順調」の定義、世界契約で見直せませんか)

 そんな軽口を叩いていると、ティオが新しい予約票を抱えて戻ってきた。

「次は農村からいらしたご夫婦です。地代契約のご相談で……かなり切羽詰まっているみたいで」

「分かったわ。お通しして」

 質素な服に日焼けした肌。ひび割れた指先。農民夫婦は、緊張で肩をすぼめたまま部屋に入ってきた。

「し、聖女様に、こんなことをお願いしてよいのか……」

「困っている人の相談を聞くのが、私の仕事です。どうぞ、お掛けください」

 椅子を勧めると、夫婦はおそるおそる腰を下ろした。

「その、地主様が、新しい契約を結んでくださることになりまして」

「『豊作の年は多めに、凶作の年は相談』してよいと、言ってくださったんです」

 妻の声には、少しだけ誇らしさが混じっている。

 机の上には、一枚の羊皮紙。丁寧な文字の上に、淡い光の帯が幾筋も浮かんでいた。

 私には、それが「加護タグ」として見える。

 白っぽい細い帯は、通常の地代。薄い金色の粒は、豊作の祝福。

 その中に一本だけ、赤銅色の鎖のようなタグがからみついていた。

(豊作時追加徴収、ですね)

「少し、条文を読ませていただいてもいいですか」

「も、もちろんです!」

 私は契約書を手に取り、一行ずつ声に出す。

「『豊作の年には、地主は地代を増やすことができる』」

「はい。恵みを分け合うのが筋だと……」

「ここまでは、まあ、いいとして。『凶作の年は、地主は相談に応じることがある』」

 その一文で、ティオがぴくりと眉を動かした。

 私はペン先で、「ある」の一文字を軽くつつく。

「……『ある』、ですか?」

「ええ。『相談に応じることがある』だと、『今回は応じません』と断られても、契約違反にはならないんです」

 農民夫婦の顔色が、一気に曇る。

「で、でも、地主様は『困ったときは相談に乗る』と……」

「口でそう言ってくださるのは、本心なんだと思います。ただ、紙に書かれている言葉は、少し違う意味なんです」

 私は出来るだけやわらかい声で続ける。

「それに、『豊作の年には地代を増やすことができる』とこの一文が組み合わさると、豊作の年にはたくさん払って、凶作の年には、相談しても断られるかもしれない、という形にも解釈できてしまいます」

 ティオが、ごくりと喉を鳴らした。

《出ましたね、「任意」系の地雷ワード》

 私は小さく息をつく。

「もしよろしければ、この部分に、少しだけ手を入れさせてもらえますか。地主様の顔をつぶさない範囲で」

「そんなことが……?」

 夫婦とティオが同時にこちらを見る。

「『凶作の年には、地代を減免することを原則とし、やむを得ない場合のみ相談とする』」

「げ、減免……」

「このくらいなら、地主様にも納得していただけると思います。『相談に応じることがある』だと曖昧なので、『原則減らす、どうしても無理なときだけ相談』に変えるんです」

 私はペンを取り、元の「応じることがある」に、静かに二重線を引いた。

 余白に新しい文言を書き込むと、赤銅色の鎖タグがほどけ、淡い銀色の帯に変わる。

「……光が、変わった?」

「ええ。これで、『相談したのに聞いてもらえなかった』というログが積みにくくなります」

「ろ、ログ……?」

「女神様のアーカイブに残る記録のことです」

 農民夫婦は、互いの手を強く握りしめた。

「聖女様……。こんな、私らのために」

「ありがとうございます。これで、畑を続けていけそうです」

「地主様にも、この修正案を必ず説明します。もちろん、最終的に署名されるかどうかは、地主様のお考え次第ですが」

 私は最後にそう付け加えた。契約にサインするかどうかを決めるのは、あくまで当事者だ。

《そういうところが、好きですよ》

(口説かれている気がするので、やめてください)

 夫婦が何度も頭を下げて去っていき、扉が閉まる。

 ティオが、二重線と追記をじっと見つめていた。

「……こういう書き方も、あるんですね」

「あるのよ。契約書の余白がある限り、まだ何か変えられるわ」

 自分で言いながら、その言葉が胸の奥に小さく残る。

 塔の鐘が、正午を告げた。

 けれど相談室の前の列は、まだ途切れない。

「聖女様、お昼……少しだけでも」

 ティオが、おそるおそる水差しを掲げる。

「そうね——」

 答えようとしたところで、扉の外から貴族らしい声が響いた。

「午後の祝福予約が押していてね。うちの子の祈願を、少し前倒ししてもらえないか」

「聖女様には、いつもお世話になっているからな」

 年配の神官が、にこやかにティオを諭す。

「奉仕に休みなどいらんよ、若いの。感謝されるうちが花だ」

「で、でも、聖女様は朝から——」

「聖女様はお丈夫だから大丈夫だとも。女神様の加護がある」

(出ました。「やりがい」と「加護」の合わせ技)

 私は苦笑いで受け流した。

「大丈夫よ、ティオ。本当に倒れそうになったら、ちゃんと休むから」

「……『本当に』って、どのくらいなんでしょう」

 ぽろりと零れたティオの呟きが、やけに耳に残る。

 ようやく列が一瞬だけ途切れた隙に、ティオがパンと水を運んできた。

「せめて、これだけでも」

「ありがとう」

 窓辺に腰を下ろし、私はパンをかじる。

 机の端に置かれた封筒が目に入った。「奉仕契約見直し会議・次週案内」と記されている。

(「奉仕」という言葉が、ここではどんな条文になるのか)

 私は小さく息を吐いた。

「その日、私の休憩時間は、この5分で全部だった。そして『奉仕』という言葉が、これから3年かけて、私たちの首を絞めることになるなんて——このときの私は、まだ知らない」

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